まんがと猫と京都のくらし

京都在住の漫画家が猫を愛でながら生きています

5月12日

5年前の今日、平安神宮でごく近しい親族のみの神前式を挙げました。


2月半ばに母の末期がんが判明し、結婚前提で付き合っていた彼に急遽帰国してもらい、3月に初めて両家に挨拶し、式場を決め、兎にも角にも進められるものは全部進めるぞ、という勢いで入籍しました。

普通の健康診断では見つけられず、調子がおかしいと近所の病院で診察しても別の軽い病気だと判断され、発見があまりに遅くなってしまった母のがん。

一時はまともに動くことすら難しい状態にまで悪化していたので、結婚式をどのタイミングで予約すれば大丈夫だろうか…と、治療スケジュールも考えながら可能な限り早い枠で予約しようと話し合った記憶があります。

平安神宮は、父と母が初めてデートをしたという思い出の場所でした。

そして当時徒歩圏内に住んでいたこともあり、式場の第一希望が平安神宮でした。

他の候補も考えつつ一番最初に式場見学の予約を取り、挙式可能な吉日を聞いた時、たしか一番早い日程が5月12日でした。

 

母の日に、両親の初デートの場所である平安神宮で。

娘として人生これ以上の贈り物はないだろうという思いで決めました。

彼は全く何の願望もない人なので、結婚も式を挙げるかどうかも日取りがいつとかも全部自由にしておくれ、という感じなので、何をどうするかは全部私の都合で付き合ってもらいました。

 

教会でバージンロードを共に歩くのは父親ですが、神前式は母親と共に歩きます。

母が元気なうちに、どうしてもここを共に歩いて欲しかった。

幸運なことに予定通り母の体調が良いタイミングで式を迎えることができ、真夏かと思うほどの晴天の中、無事に滞りなく終えることができました。

平安神宮会館の食事がとても美味しかったことも、式場を決めた理由の一つで、その美味しい料理を美味しく食べてもらえたことも良かった。

5年前のこの日、両家が全員元気で笑っているその瞬間を写真に残せた。それがどれだけ大事で尊いものか。この5年の間で母と義父を亡くした今、あの時結婚を急いだ選択は間違いではなかったと確信しています。夫婦仲が平和だから言えることですが。

 

結婚前提でのお付き合いを決めた2日後に彼はアフリカに旅立ち、半年も経たないうちにこの怒涛の流れで結婚してしまってるんで、多分お互い両親が元気だったら「もう少し考えなさい…」と釘を刺されるであろう…本当は2年後の帰国後に話を進めるつもりでした。

 

この平安神宮挙式から一年たって、翌年の5月12日は状態が悪くなっていく母を手伝うために里帰りをしていました。プレゼントはカーネーションの鉢植えで、部屋で過ごすことが多くなった母が少しでも部屋の中でガーデニング気分を味わえるように、と思って贈りました。

でも水やりをまともにできないくらい入退院を繰り返すようになり、24時間気を抜けない容態になっていきました。

私が一番料理や身体的なケアなど介護できるということ、父の負担やホスピスの選択肢を考慮した上で、京都の我が家で夫と3人一緒に暮らすことになりました。

できるだけ自宅で過ごしたい母は、容体が悪くなったら入院、少し回復したら退院を繰り返し、“最後に一度でいいから実家に帰ってやり残したことを片付ける”ということが目標になりました。

そして家族総出で母を実家に連れて帰り、3泊4日の間に終活の総仕上げをしました。母は自分の葬儀のための準備をし、父に仏壇の手入れや作法を伝え、親しい友人と会い、京都に戻りました。

その時にすっかり傷んでしまっていたカーネーションを畑に植え付けておきました。

 

約一週間後、母は6月末に生涯を閉じました。

 

カーネーションはかろうじて根付いて、翌年花をつけたりしていたようです。それもいつの間にか父が畑作業に目覚め、すっかり別の元気な野菜や花で賑わう景色に変わっていきました。

あのカーネーションがまだ残っていたら、きっと私は過剰に大事にしてしまっていただろうな。



その翌年、私は不妊治療中で5月12日は人工授精の第一回目でした。しばらく治療を続けて結局自然に任せる方向で落ち着き、その翌年には私はきっと母という存在にはならないんだろうなと気持ちを切り替えました。

 

母がいなくなってから、母の日という文字がつらいものになりました。

私は母から何かもらうより贈る方が好きで、誕生日も母の日も自分の贈りたい欲求を満たすために贈っていました。単純に喜んでもらいたかったんだと思います。誰彼構わずプレゼントするのが好きというわけではないので。

それがもう、贈ることができない。贈って喜ぶ姿が見れない。それを思い知らされるものになってしまいました。誕生日はともかく、母の日は1ヶ月前には町中どころかネットの中でも母の日商戦が目につくので本当につらいし嫌でした。

 

母がいなくなって、もうすぐ丸4年。

やっと母の日のつらさが和らいできました。もうすぐ母の日だな、お義母さんに何贈ろうかな、と自然と考えられるようになりました。あんまり大げさなものだと気を遣わせてしまうなと思って、今年はヒロなんオリジナルグッズのランチバックとTシャツがプレゼントです、ということにしています。ちゃんとお義母さんが選んで買おうとしてくださってたので大丈夫です。迷惑じゃないはず。これで成り立っているくらい仲良くしてもらえてとても幸せです。

suzuri.jp

up-t.jp

 

5年前の平安神宮挙式の様子を、義妹ちゃんが動画編集してプレゼントしてくれていました。動画の最後に母の日企画として、夫と私がそれぞれ母のことを語ったり、お互いの母へのメッセージを残したりしていました。実はそんなことをやったこと自体すっかり忘れていて、先日久々に見返した時に自分でびっくりしました。何を言っていたのかも忘れていたので。

5年前の私は、母と家庭菜園をやりたい、教えてもらいたいと言っていました。その頃はまだベランダには何もなく、全くやったことない状態だったはずで、やりたいと言いつつそんなに本気でやりたかったか…?と過去の自分に問いたいくらいなのですが。

 

私がベランダで緑を育て始めたのは、母が逝く一週間前にベランダに土を運んで種まきをした時。母がどうしてもやりたいと言うので実家からプランター等を運んでベランダに設置した、そこからです。

母はもう車椅子でしか移動できなかったけど、病院帰りに一緒に苗を買いに行きました。母がプランターに蒔いた小松菜や水菜の種が、きっとこれで最期だという思いがあったのかどうかはわからないのですが、尋常じゃない密集具合で間引きが大変だったのも良い思い出です。いなくなった母に、「さすがにこれは蒔きすぎやで…」と突っ込みながら大事に育てて食べました。



それからずっと、母のことを思いながら緑を育て、植物園に行くたびに母と並んで歩いている妄想をし、生前もこれくらい私が興味を持っていたらどれだけ一緒に楽しく話せただろうと後悔します。父も母から後を任された畑で野菜を育て、花で家の周りをいっぱいにしながら、同じように後悔しています。共通の趣味として一緒に楽しんであげたかった。父なんて野菜嫌いだったし、花の苗を雑草と判断して抜いてしまうくらい無頓着だったので、その変化の大きさは相当なものです。

食べきれない量の野菜を育ててしまう田舎の老人あるある。

今はそんな父と同じ目線でガーデニングを楽しんでいます。二人とも母に申し訳なさを感じながら、野菜を育てて旬のものを食べ、花を育てて名前を覚えるという4年間でした。母が遺してくれた大切な共通の趣味です。

 

来週父が京都に遊びに来るので、一緒に植物園さんぽしながらきっとまた母の話をするでしょう。

おかあさん、いつもありがとう。